2024年05月24日
あなたという奇跡に感謝して
大好きな熊木杏里さんの曲についての記事を3回続けて投稿したのですが、
前回の「桜見る季節」の記事から、実に一週間経ってのブログ更新となってしましました。
まだまだ好きな熊木杏里さんの曲があるので もっともっと続けて紹介したいと思います。

今日も とっても大好きな曲の紹介をさせていただきますが、
そのままの歌詞を載せるのは何かと問題がありそうなので、以下のように変えてみました(笑)。
誕生日のことは覚えていますか?
ろうそくのにおいが胸にしみわたるあの瞬間を。
今日はその日、あなたを祝う日です。
あなたの存在を喜び、感謝する日。
今日も明日も、あなたがあなたであることを祝福します。
私たちは生きているようで、実は多くのものに生かされている存在です。
そんな私がここにいるのは、あなたがいるから。
そして、あなたもまた、他の誰かにとっての大切な存在です。
おめでとうございます。今日までたどり着いたあなたに。
人生には辛いことも多いですが、それでもあなたがここにいることに感謝します。
理由なんて特に必要ありません。
あなたという存在が、ただそれだけで素晴らしいのです。
もらったものを覚えていますか?
形のあるものだけではなく、形のないものも含めて。
時には、特別ではないと思っていたものが、特別なものに変わり、
あなたを幸せにしてくれたこともあったでしょう。
「何もできない」なんてことはありません。私にも、そしてあなたにも。
私たちにはできることがある、それを信じて進んでいきましょう。
おめでとうございます。あなたという奇跡に。
暗闇の中で灯る火のように、あなたは輝いています。
ありがとう、あなたがここにいること、それだけで十分です。
手を合わせ、心からの感謝を捧げます。
おめでとうございます。今日までたどり着いたあなたに。
今日、新しい思い出がひとつ増えました。
ありがとう、理由なんて何もいりません。
あなたという人がいることで、私たちは幸せです。
これからも一歩ずつ、前に進んでいきましょう。
あなたの誕生日を、心から祝福します。
この曲の正体は こちらです。
おまけ
その昔、3回目のギター発表会にて歌わせていただきました。
以下のアドレスをクリックしてください。
https://www.youtube.com/watch?v=ZqUf_BeNqEE
前回の「桜見る季節」の記事から、実に一週間経ってのブログ更新となってしましました。
まだまだ好きな熊木杏里さんの曲があるので もっともっと続けて紹介したいと思います。

今日も とっても大好きな曲の紹介をさせていただきますが、
そのままの歌詞を載せるのは何かと問題がありそうなので、以下のように変えてみました(笑)。
誕生日のことは覚えていますか?
ろうそくのにおいが胸にしみわたるあの瞬間を。
今日はその日、あなたを祝う日です。
あなたの存在を喜び、感謝する日。
今日も明日も、あなたがあなたであることを祝福します。
私たちは生きているようで、実は多くのものに生かされている存在です。
そんな私がここにいるのは、あなたがいるから。
そして、あなたもまた、他の誰かにとっての大切な存在です。
おめでとうございます。今日までたどり着いたあなたに。
人生には辛いことも多いですが、それでもあなたがここにいることに感謝します。
理由なんて特に必要ありません。
あなたという存在が、ただそれだけで素晴らしいのです。
もらったものを覚えていますか?
形のあるものだけではなく、形のないものも含めて。
時には、特別ではないと思っていたものが、特別なものに変わり、
あなたを幸せにしてくれたこともあったでしょう。
「何もできない」なんてことはありません。私にも、そしてあなたにも。
私たちにはできることがある、それを信じて進んでいきましょう。
おめでとうございます。あなたという奇跡に。
暗闇の中で灯る火のように、あなたは輝いています。
ありがとう、あなたがここにいること、それだけで十分です。
手を合わせ、心からの感謝を捧げます。
おめでとうございます。今日までたどり着いたあなたに。
今日、新しい思い出がひとつ増えました。
ありがとう、理由なんて何もいりません。
あなたという人がいることで、私たちは幸せです。
これからも一歩ずつ、前に進んでいきましょう。
あなたの誕生日を、心から祝福します。
この曲の正体は こちらです。
おまけ
その昔、3回目のギター発表会にて歌わせていただきました。
以下のアドレスをクリックしてください。
https://www.youtube.com/watch?v=ZqUf_BeNqEE
2024年05月16日
昨日と今日の間に
てんこもりのスタッフだった頃、当時小学生の子どもと一緒にギター教室へ通っていました。
しかし、子どもの教室通いは長く続かず… 嫁様の助けを借りて 僕が発表会に出ることになりました。
【ギター発表会/カナート西神戸 ペレーネホール】
◆作詞・作曲/熊木 杏里 ◆ピアノ:嫁様 ◆撮影:当時小学生だったガキンチョ
大好きな熊木杏里さんの【最後の羅針盤】。
2007年にNHKで放映された『土曜ドラマ・病院のチカラ~星空ホスピタル~』の主題歌です。
昨日のブログに続いて、今日もまた 熊木杏里さんの曲の歌詞を 以下のような解説文にしてみました。
昨日までの私たちの世界は、今日になれば 既に変わっています。
見慣れた景色は過去の夢と化し、私たちは新しい居場所を探し求めているのです。
約束だけでは作り上げることができない未来。
願いを抱き、人々は明日を夢見て命の歌を歌い続けます。
太陽が沈んだ後でも、私たちは花火のように輝きを放ち続けます。
まるで暖炉の周りに人が集まるように、温かく人々を引き寄せる存在にいつかなりたいと願うのです。
そのために、私の視線はナイフのようにただ一点に集中しているようです。
誰にも見えない景色かもしれませんが、自分だけはその未来を信じて進んでいきます。
忘れられた思い出が時の中を旅し、再び取り戻されるとき、人は風のように自由に生きていくのでしょう。
胸の中に残された感情が揺れ動いても、進む途中で捨て去るものがあります。
その時々で行く先を変えていける力を持ちながら、周囲の視線に振り向かず、ただ一点を目指して進むのです。
たとえ多くの未来に出会うとしても、最後に頼れるのは自分自身の羅針盤だけです。
私の視線は鋭く、一点に集中しています。
誰にも見えない景色かもしれませんが、自分だけはその未来を信じ続けたい。
周囲の視線に惑わされず、ただ一点にかけてみます。
たとえ、どんな未来が待っていても、自分自身が最後の羅針盤なのですから。

この曲が伝えるメッセージは、変化の中で自分自身を信じることの重要性です。
未来は予測できないものであり、僕たちは時には見えない景色に向かって進まなければなりません。
他人の視線や意見に惑わされず、自分の信じる道を歩むことで、僕たちは本当の意味での自由と成長を手に入れることができるでしょう。
皆さんも、この歌のように自分の未来を信じて進んでいってください。
どんなに道が険しくても、最後は自分自身の羅針盤を信じることが最も大切だと思います。
しかし、子どもの教室通いは長く続かず… 嫁様の助けを借りて 僕が発表会に出ることになりました。
【ギター発表会/カナート西神戸 ペレーネホール】
◆作詞・作曲/熊木 杏里 ◆ピアノ:嫁様 ◆撮影:当時小学生だったガキンチョ
大好きな熊木杏里さんの【最後の羅針盤】。
2007年にNHKで放映された『土曜ドラマ・病院のチカラ~星空ホスピタル~』の主題歌です。
昨日のブログに続いて、今日もまた 熊木杏里さんの曲の歌詞を 以下のような解説文にしてみました。
昨日までの私たちの世界は、今日になれば 既に変わっています。
見慣れた景色は過去の夢と化し、私たちは新しい居場所を探し求めているのです。
約束だけでは作り上げることができない未来。
願いを抱き、人々は明日を夢見て命の歌を歌い続けます。
太陽が沈んだ後でも、私たちは花火のように輝きを放ち続けます。
まるで暖炉の周りに人が集まるように、温かく人々を引き寄せる存在にいつかなりたいと願うのです。
そのために、私の視線はナイフのようにただ一点に集中しているようです。
誰にも見えない景色かもしれませんが、自分だけはその未来を信じて進んでいきます。
忘れられた思い出が時の中を旅し、再び取り戻されるとき、人は風のように自由に生きていくのでしょう。
胸の中に残された感情が揺れ動いても、進む途中で捨て去るものがあります。
その時々で行く先を変えていける力を持ちながら、周囲の視線に振り向かず、ただ一点を目指して進むのです。
たとえ多くの未来に出会うとしても、最後に頼れるのは自分自身の羅針盤だけです。
私の視線は鋭く、一点に集中しています。
誰にも見えない景色かもしれませんが、自分だけはその未来を信じ続けたい。
周囲の視線に惑わされず、ただ一点にかけてみます。
たとえ、どんな未来が待っていても、自分自身が最後の羅針盤なのですから。

この曲が伝えるメッセージは、変化の中で自分自身を信じることの重要性です。
未来は予測できないものであり、僕たちは時には見えない景色に向かって進まなければなりません。
他人の視線や意見に惑わされず、自分の信じる道を歩むことで、僕たちは本当の意味での自由と成長を手に入れることができるでしょう。
皆さんも、この歌のように自分の未来を信じて進んでいってください。
どんなに道が険しくても、最後は自分自身の羅針盤を信じることが最も大切だと思います。
2024年03月23日
楽しいデザイン制作
デザイン業界での業務に携わって40年。
ここまでの人生を振り返ると 挫折や絶望も経験しましたが、やはりデザイン制作業務は本当に楽しく充実したものであると思う今日この頃です。

何よりもデザイン制作は、クリエイティビティを発揮できるフィールドとして、常に新しいアイデアやアプローチを試すことができます。
その中でも、特に楽しいと感じることをいくつか書いてみます。
新しいプロジェクトに取り組む際、顧客の要件や目標に沿ってクリエイティブな解決策を考えるのが楽しいです。
時には挑戦的なデザイン課題に直面することもありますが、その過程で自分のスキルを試し成長することもできたりします。
制作の過程で、さまざまなツールやテクニックを試すことができます。
新しいソフトウェアやテクノロジーを学ぶことは常に刺激的であり、自分のスキルセットを向上させるための素晴らしい機会です。
プロジェクトが完成し、デザインが実際の製品やサービスに反映されるときが最高に素晴らしい瞬間です。
自分のアイデアや努力が形になって具体的な成果となった際には喜びと充実感に満ち溢れます。
デザイン制作業務では、顧客やチームからのフィードバックを受け取り、それに基づいてデザインを改善するプロセスも楽しいです。
他の人の視点やアイデアを取り入れることで、より優れたデザインを生み出すことができます。
デザイン制作業務では、プロジェクトの初期段階でアイデアをブレインストーミング(集団発想法)をすることがよくあります。
チームメンバーとアイデアを出し合い、それらを組み合わせて新しいコンセプトを生み出す作業などは とても有意義に感じます。
それが 非常に楽しすぎるので、このたび 明石江井ヶ島の海賊レストランでのクリエイティブ学習空間を始めました。
Webサイトにて 日程が決まり次第お知らせしていますので、お気軽にご参加ください。
⇒ 海賊食堂が学習空間に|MUGEN.SPACE
クリエイティブなフィールドであるため、常に新しい挑戦や発見が待っていますし、その過程で自分自身も今でも成長できると感じられることが とても魅力的ですね。
時には厳しいこともありますが、基本的には いつでも楽しいと思える仕事に従事することが出来て本当に良かったです。
あとは 何年続けられるかですが、目が見えて手が動かせる限りは この道でプロとして生きていきます。
ここまでの人生を振り返ると 挫折や絶望も経験しましたが、やはりデザイン制作業務は本当に楽しく充実したものであると思う今日この頃です。

何よりもデザイン制作は、クリエイティビティを発揮できるフィールドとして、常に新しいアイデアやアプローチを試すことができます。
その中でも、特に楽しいと感じることをいくつか書いてみます。
新しいプロジェクトに取り組む際、顧客の要件や目標に沿ってクリエイティブな解決策を考えるのが楽しいです。
時には挑戦的なデザイン課題に直面することもありますが、その過程で自分のスキルを試し成長することもできたりします。
制作の過程で、さまざまなツールやテクニックを試すことができます。
新しいソフトウェアやテクノロジーを学ぶことは常に刺激的であり、自分のスキルセットを向上させるための素晴らしい機会です。
プロジェクトが完成し、デザインが実際の製品やサービスに反映されるときが最高に素晴らしい瞬間です。
自分のアイデアや努力が形になって具体的な成果となった際には喜びと充実感に満ち溢れます。
デザイン制作業務では、顧客やチームからのフィードバックを受け取り、それに基づいてデザインを改善するプロセスも楽しいです。
他の人の視点やアイデアを取り入れることで、より優れたデザインを生み出すことができます。
デザイン制作業務では、プロジェクトの初期段階でアイデアをブレインストーミング(集団発想法)をすることがよくあります。
チームメンバーとアイデアを出し合い、それらを組み合わせて新しいコンセプトを生み出す作業などは とても有意義に感じます。
それが 非常に楽しすぎるので、このたび 明石江井ヶ島の海賊レストランでのクリエイティブ学習空間を始めました。
Webサイトにて 日程が決まり次第お知らせしていますので、お気軽にご参加ください。
⇒ 海賊食堂が学習空間に|MUGEN.SPACE
クリエイティブなフィールドであるため、常に新しい挑戦や発見が待っていますし、その過程で自分自身も今でも成長できると感じられることが とても魅力的ですね。
時には厳しいこともありますが、基本的には いつでも楽しいと思える仕事に従事することが出来て本当に良かったです。
あとは 何年続けられるかですが、目が見えて手が動かせる限りは この道でプロとして生きていきます。
2024年03月08日
アマノイワトヒラク(天岩戸開く)
天岩戸開きは、光と闇、生命と死、そして新しい始まりの象徴として、日本文化の中で長く語り継がれています。
天照大御神が岩戸から出てきたことにより、世界は再び明るさを取り戻し、人々は困窮から解放されました。
このことは、困難な状況から立ち直り、新しい時代を切り開くための希望の象徴として解釈されています。

本日 たまたまかもですが、このアマノイワトヒラクという言葉を いろいろなところで目にしました。
12年前に しばらく休んでいたブログを再開した際に書いた記事を再度ご紹介いたします。
この記事には、大好きな宇宙戦艦ヤマトへの深い愛情と、母への感謝の気持ちが込められています。
思い出深いエピソードや、宇宙戦艦ヤマトに対する熱い想いが、そのまま綴られています。
2000年にデザイン会社を潰してから12年目にして再び起業したのですが、奇しくも それからまた12年経って このアマノイワトヒラクが甦りました。
ぜひご一読ください。
オリジナル記事 ⇒ きらめき☆てんこもり♪ アマノイワトヒラク(2012年4月23日投稿)
「宇宙戦艦ヤマト2199」の記事における「アマノイワトヒラク(天岩戸開く)」の解説
アマテラス(サーシャ)の太陽系到来を司令部へ知らせるに際し、戦艦キリシマの沖田が用いた符牒(仲間うちだけに通用する言葉。隠語。合い言葉)。『岩戸隠れ』伝説では、天岩戸が開けられ天照大神が外へ出たことによって世界が再び明るくなったとされる。
出典 ⇒ https://www.weblio.jp/content/アマノイワトヒラク
⇒「高知のうまいもん、食べてみいや!」 高知県出身の声優・小野大輔さんが地元の「海の幸・山の幸」の魅力を土佐弁で紹介!
天照大御神が岩戸から出てきたことにより、世界は再び明るさを取り戻し、人々は困窮から解放されました。
このことは、困難な状況から立ち直り、新しい時代を切り開くための希望の象徴として解釈されています。

本日 たまたまかもですが、このアマノイワトヒラクという言葉を いろいろなところで目にしました。
12年前に しばらく休んでいたブログを再開した際に書いた記事を再度ご紹介いたします。
この記事には、大好きな宇宙戦艦ヤマトへの深い愛情と、母への感謝の気持ちが込められています。
思い出深いエピソードや、宇宙戦艦ヤマトに対する熱い想いが、そのまま綴られています。
2000年にデザイン会社を潰してから12年目にして再び起業したのですが、奇しくも それからまた12年経って このアマノイワトヒラクが甦りました。
ぜひご一読ください。
タイトル:アマノイワトヒラク
この1年の間、実に様々なことがありましたが… 久しぶりのブログ投稿になります。
さて、知る人ぞ知る… 僕は宇宙戦艦ヤマトの大ファンです。
自分自身の中では 2010年暮れの木村拓哉さん主演の実写版公開を最後に
宇宙戦艦ヤマトへの一応の区切りはついたのだと決めていました。
そう思ったのと時を同じくして 2011年を迎えてからの環境は少しずつ変わって行き
また、田舎で一人暮らしをしていた 母の容態が心配で 頻繁に高知へ帰郷しました。
そんな落ち着かない一年ではありましたが 、振り返ってみれば2011年という年は
今までで一番 母に対して親孝行が出来た年でもありました。
たった一年前のGWには 山菜採りが大好きな母を連れて高知の檮原の山に行きました。
2010年の暮れに癌の手術をしたとは思えないぐらいに元気で山を登り山菜を採り続ける母。
しかし その後まもなく再発… 入退院を繰り返していた母は
2011年11月2日の夜に自宅で一人テレビを見ながら亡くなりました。
実は、二十世紀末に いろいろとあって、母に一度は勘当されましたが
でも、母宅を整理している際に ヤマトのレコードやら本やらがたくさん出てきて…
なんだかんだ言っても ずっと大切にしていてくれたんだなと 嬉しく思いました。
高校の頃、島倉千代子さんの大ファンの母と「サーシャわが愛」をステレオで聴いたりとか
母子家庭で貧乏だったのに ヤマトのレコードや本は無理してでも買ってくれたりとか
あらためて母への感謝の気持ちでいっぱいになりました。
2011年の後半頃から、ヤマト復活篇のディレクターズカット版と2199の話題が広がる中
全く関心が無かったわけではありませんが、ホントに心から熱くなれなかったのです。
今年になって たまたま あることがきっかけで イラスト投稿サイトのpixivに登録し
宇宙戦艦ヤマト2199のイラストを描いて投稿したりで 気持ちが高まっていきました。
でも、どうしても 自分が思い描くヤマトを期待してしまう…
誰でもそういうのはあると思いますけれど…
しかし、2199の音楽を宮川彬良さんが担当すると知らされた時には全身が震えました。
あの瞬間に 初めてヤマト2199を観てみたいと思いましたね。
事実、第一章において この曲をあの場面で流してくれるなど… 感動ものです。
まぁ、僕の一番の希望としては、最終章には無理だとしても せめて 第四章か五章ぐらいに
大好きな熊木杏里さんにエンディングを歌っていただければ それ以上の幸せはありません。
公開から5日目にして ようやく劇場で観ることが出来ましたが
宇宙戦艦ヤマト2199は 本当に良い作品だと思います。
ただ、古代進が熱血ぽくない!のが気に入りませんが(笑)
でも、たまに土佐弁なまりの出る古代進なので(爆)、懐かしく故郷を思ったりしています。
父が他界した次の年に誕生した宇宙戦艦ヤマト。
それから僕にとってヤマトの存在は父そのものでした。
そして… 最後に母への親孝行の機会と親子の絆を再確認してくれた宇宙戦艦ヤマト…
まだまだヤマトとともに 僕の人生は あり続けるようです。\(喜)/
オリジナル記事 ⇒ きらめき☆てんこもり♪ アマノイワトヒラク(2012年4月23日投稿)
「宇宙戦艦ヤマト2199」の記事における「アマノイワトヒラク(天岩戸開く)」の解説
アマテラス(サーシャ)の太陽系到来を司令部へ知らせるに際し、戦艦キリシマの沖田が用いた符牒(仲間うちだけに通用する言葉。隠語。合い言葉)。『岩戸隠れ』伝説では、天岩戸が開けられ天照大神が外へ出たことによって世界が再び明るくなったとされる。
出典 ⇒ https://www.weblio.jp/content/アマノイワトヒラク
⇒「高知のうまいもん、食べてみいや!」 高知県出身の声優・小野大輔さんが地元の「海の幸・山の幸」の魅力を土佐弁で紹介!
2024年02月26日
風と波の記憶 江井ヶ島での二十年
明石の江井ヶ島に住んでから、もうすぐ二十年が経とうとしています。ここでの生活は、心に深く刻まれた思い出で溢れています。
それと同時に、初めて足を踏み入れたときから、この場所でずっと住んでいこうという気持ちになったことを思い出します。

当初は、新しい環境に戸惑いもありました。しかし 次第に、江井ヶ島の自然の美しさに魅了されていきました。二十年の間に、この土地での生活を楽しむ方法を身につけました。町内の散歩や、自宅から5分ほど歩いて行ける海を眺めたりして、静かで風光明媚な海岸線、酒蔵のある町並みなど美しい景色に触れる機会を得ました。そして温かい地域の人々とのふれあいは、僕の心を癒し、これまでに経験することの少なかった人並みの豊かさに近い日々を送る源となりました。
また、地域のコミュニティに参加することもありました。江井ヶ島の海岸清掃など地域の団体に参加したりすることで、この土地の人々との絆を深めてきました。少年自然の家などでのイベントにもたくさん参加しました。
子どもが小中学生の頃には学校の行事を見学に行ったり、部活動の対外試合などの引率の役目もさせていただいたりしました。
これからは もっともっと地元の飲食店や商店でも顔なじみとなり、地域社会の一員として完全に認められることを目標にしています。
僕は江井ヶ島に来るまでは、居住が定まらず何度も引越しを繰り返してきました。古民家であったり、アパートやマンションであったり、そこそこの豪邸であったり、牛小屋みたいなところだったりと、実に様々です。
人生を辿っていくと、実に波乱万丈ではありましたが、生まれ故郷の高知で建立した墓に母の遺骨を納めた後、ふたたびデザイン業を営むことを決めて明石の江井ヶ島の地で開業し、今日に至っております。
2000年に上海や福岡、信州などを転々としていた時代には「放浪するは我が人生」と言い続けていました。しかし、今はもうそれは当てはまりません。江井ヶ島での二十年の生活は、僕に最低限の安定と大きな満足をもたらしてくれました。
江井ヶ島の美しい風景、あたたかい人々、そして この場所で充実した日々を送れていることに 感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも江井ヶ島で過ごす毎日が、ますます幸せで充実したものとなることを願っています。

是非 ご参加ください ⇒ 海賊食堂が学習空間に│MUGEN.SPACE
あわせて ご覧ください ⇒ 明石江井ケ島より
それと同時に、初めて足を踏み入れたときから、この場所でずっと住んでいこうという気持ちになったことを思い出します。

当初は、新しい環境に戸惑いもありました。しかし 次第に、江井ヶ島の自然の美しさに魅了されていきました。二十年の間に、この土地での生活を楽しむ方法を身につけました。町内の散歩や、自宅から5分ほど歩いて行ける海を眺めたりして、静かで風光明媚な海岸線、酒蔵のある町並みなど美しい景色に触れる機会を得ました。そして温かい地域の人々とのふれあいは、僕の心を癒し、これまでに経験することの少なかった人並みの豊かさに近い日々を送る源となりました。
また、地域のコミュニティに参加することもありました。江井ヶ島の海岸清掃など地域の団体に参加したりすることで、この土地の人々との絆を深めてきました。少年自然の家などでのイベントにもたくさん参加しました。
子どもが小中学生の頃には学校の行事を見学に行ったり、部活動の対外試合などの引率の役目もさせていただいたりしました。
これからは もっともっと地元の飲食店や商店でも顔なじみとなり、地域社会の一員として完全に認められることを目標にしています。
僕は江井ヶ島に来るまでは、居住が定まらず何度も引越しを繰り返してきました。古民家であったり、アパートやマンションであったり、そこそこの豪邸であったり、牛小屋みたいなところだったりと、実に様々です。
人生を辿っていくと、実に波乱万丈ではありましたが、生まれ故郷の高知で建立した墓に母の遺骨を納めた後、ふたたびデザイン業を営むことを決めて明石の江井ヶ島の地で開業し、今日に至っております。
2000年に上海や福岡、信州などを転々としていた時代には「放浪するは我が人生」と言い続けていました。しかし、今はもうそれは当てはまりません。江井ヶ島での二十年の生活は、僕に最低限の安定と大きな満足をもたらしてくれました。
江井ヶ島の美しい風景、あたたかい人々、そして この場所で充実した日々を送れていることに 感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも江井ヶ島で過ごす毎日が、ますます幸せで充実したものとなることを願っています。

是非 ご参加ください ⇒ 海賊食堂が学習空間に│MUGEN.SPACE
あわせて ご覧ください ⇒ 明石江井ケ島より