2023年07月27日
夢をかなえる仕事のヒント
僕は16歳になってすぐに原付免許を取得しました。
しかし、普通免許を取得したのは阪神・淡路大震災の前年の1994年で、すでに30歳を超えていました。
高校卒業後は大阪のデザイン専門学校への進路を決めていたため、諸費用面で運転免許どころではなく、それに大阪なら公共交通機関が発達しているので、車無しでも大丈夫と思っていたところもありました。
ところが、新聞奨学生としての配達業務でスーパーカブを使うこともあり、有効期限前に原付免許の更新をしました。普通免許を持っているのが当たり前の年齢になっていたので、免許更新センターでとても恥ずかしい気持ちだったのを憶えています。
専門学校卒業とともに新聞配達業務も終了。就職後は原付免許の更新はせず、そのまま失効させてしまいました。それからの僕の愛車は自転車でした。
長い歳月が過ぎて、もうすぐ30歳を迎える頃、同じ夢を何度も見ました。
車を運転して長い坂道を登っている夢です。
なんと、それがきっかけで大阪府池田市の自宅から大阪市内の会社への通勤時に阪急電車の車窓から見えていた豊中の自動車教習場に通い始めました。
この期間、会社には迷惑をかけそうでしたし、また教習所のイメージは恐ろしい教官に厳しく指導されるのではと不安がありました。でも実際には同世代の職員さんたちと仲良くなり、教習帰りに飲みに行くなどで、教習所通いはとても楽しかったです。
1994年6月に免許取得。7月に会社で奈良の天川村へキャンプに行くことになり、トヨタレンタカーでカローラⅡを借りました。
その後しばらくは休日出かける用事があれば、いつもレンタカーを借りていました。
どんどん借りる車種もグレードアップしていきます(笑)。
高知から母親が神戸の鈴蘭台の伯母宅まで来た際には、中型高級車のクレスタを借りて鈴蘭台まで迎えに行き、当時の家族と仲良く三世代で王子動物園などへ行って遊びました。阪神・淡路大震災の前日のことです。
震災後に初めて車を買いました。三菱自動車の販売店の広告制作をしていたご縁で、リベロというステーションワゴンを特別価格にて購入しました。
約一年後に独立して会社設立。ホームページの制作などで儲かり始めた当時、三菱自動車から発売されたばかりのシャリオグランディスというミニバンに乗り換えました。
不覚にも全てを失った後、たどり着いた福岡の地では、再びスーパーカブが愛車になりました。
その三ヶ月後、知人の誘いで長野県へ。信州木島平のホテルに勤務し、時折 お客の送迎などでハイエースを運転していました。
そして関西に帰り、三田市内の運送会社に就職。トラック運転手として丸5年間働きました。
入社2日目に早速、自ら4tトラックを運転。車検のために助手先に整備士さんを乗せて神戸の陸運局まで行くことに。実際、教習所以来のマニュアル車両で しかもトラックです。
「自分で運転せんかったら前には進まんやろ。行ってこい。必ず できる」
当時の会長の言葉に後押しされて、任務遂行できました。
それからは、宅配や または宅配の荷物を西濃運輸やエスラインやオカケンなどのセンターへ行って集荷する業務、ヤマト運輸や西武運輸などの引越し便の応援業務、佐川急便の集荷センターのベルトコンベアで佐川男子たちの中に混ざって荷物を振り分けたり、材木や工業用資材、さらには豚などの家畜を運んだり、廃屋の整理をしたり、九州や北海道などへの長距離輸送もしました。

免許が無かった頃には、まさか自分がトラック運転手になって北海道へ行くなどとは夢にも思っていませんでした。
ただ不思議なことに、青森からフェリーで未明に函館へ上陸後、札幌まで国道5号を延々と走っていると長い坂道が続く風景と出会いました。それは夢で見た光景と同じだったのです。
気づいてみれば、いつの日からか新入社員に一から十までを教える立場になっていました。
トラック運転手になりたての頃は、車庫入れなども下手で、配車先の荷受け係の人たちにボロクソに言われて続けていましたが、事務所配属となりトラックに乗務する機会が少なくなって、久しぶりに出入りしていた納品先を訪れた際、新たに取引先をご紹介をいただいたりと、いつのまにか信頼されるようになりました。
愛車もトヨタのヴィスタ、カルディナ、ホンダのレジェンドと、頻繁に乗り換えていた時期でもありました。
きっかけが習慣を変え、「必ずできる」という会長の言葉に潜在意識を刺激されたことなどを始め、ここで得た様々な体験が、自分の能力を信じ高めるという結果に導いてくれたようです。
30歳を過ぎて免許を取ったのですが、果たして免許があったから、敢えてこの仕事を選んだのでしょうか?それとも不思議と未来を予知していたから免許を取得したのでしょうか。
この経験を振り返り思うことですが、当初は何も役に立たず、まったく必要とされない自分でありました。でも時が経ち、運送会社の社員として貢献出来たのは事実で、それが現状にも良い形で現れています。夢をかなえたのも事実。まずまずの「成功」だったのです。

しかし、普通免許を取得したのは阪神・淡路大震災の前年の1994年で、すでに30歳を超えていました。
高校卒業後は大阪のデザイン専門学校への進路を決めていたため、諸費用面で運転免許どころではなく、それに大阪なら公共交通機関が発達しているので、車無しでも大丈夫と思っていたところもありました。
ところが、新聞奨学生としての配達業務でスーパーカブを使うこともあり、有効期限前に原付免許の更新をしました。普通免許を持っているのが当たり前の年齢になっていたので、免許更新センターでとても恥ずかしい気持ちだったのを憶えています。
専門学校卒業とともに新聞配達業務も終了。就職後は原付免許の更新はせず、そのまま失効させてしまいました。それからの僕の愛車は自転車でした。
長い歳月が過ぎて、もうすぐ30歳を迎える頃、同じ夢を何度も見ました。
車を運転して長い坂道を登っている夢です。
なんと、それがきっかけで大阪府池田市の自宅から大阪市内の会社への通勤時に阪急電車の車窓から見えていた豊中の自動車教習場に通い始めました。
この期間、会社には迷惑をかけそうでしたし、また教習所のイメージは恐ろしい教官に厳しく指導されるのではと不安がありました。でも実際には同世代の職員さんたちと仲良くなり、教習帰りに飲みに行くなどで、教習所通いはとても楽しかったです。
1994年6月に免許取得。7月に会社で奈良の天川村へキャンプに行くことになり、トヨタレンタカーでカローラⅡを借りました。
その後しばらくは休日出かける用事があれば、いつもレンタカーを借りていました。
どんどん借りる車種もグレードアップしていきます(笑)。
高知から母親が神戸の鈴蘭台の伯母宅まで来た際には、中型高級車のクレスタを借りて鈴蘭台まで迎えに行き、当時の家族と仲良く三世代で王子動物園などへ行って遊びました。阪神・淡路大震災の前日のことです。
震災後に初めて車を買いました。三菱自動車の販売店の広告制作をしていたご縁で、リベロというステーションワゴンを特別価格にて購入しました。
約一年後に独立して会社設立。ホームページの制作などで儲かり始めた当時、三菱自動車から発売されたばかりのシャリオグランディスというミニバンに乗り換えました。
不覚にも全てを失った後、たどり着いた福岡の地では、再びスーパーカブが愛車になりました。
その三ヶ月後、知人の誘いで長野県へ。信州木島平のホテルに勤務し、時折 お客の送迎などでハイエースを運転していました。
そして関西に帰り、三田市内の運送会社に就職。トラック運転手として丸5年間働きました。
入社2日目に早速、自ら4tトラックを運転。車検のために助手先に整備士さんを乗せて神戸の陸運局まで行くことに。実際、教習所以来のマニュアル車両で しかもトラックです。
「自分で運転せんかったら前には進まんやろ。行ってこい。必ず できる」
当時の会長の言葉に後押しされて、任務遂行できました。
それからは、宅配や または宅配の荷物を西濃運輸やエスラインやオカケンなどのセンターへ行って集荷する業務、ヤマト運輸や西武運輸などの引越し便の応援業務、佐川急便の集荷センターのベルトコンベアで佐川男子たちの中に混ざって荷物を振り分けたり、材木や工業用資材、さらには豚などの家畜を運んだり、廃屋の整理をしたり、九州や北海道などへの長距離輸送もしました。

免許が無かった頃には、まさか自分がトラック運転手になって北海道へ行くなどとは夢にも思っていませんでした。
ただ不思議なことに、青森からフェリーで未明に函館へ上陸後、札幌まで国道5号を延々と走っていると長い坂道が続く風景と出会いました。それは夢で見た光景と同じだったのです。
気づいてみれば、いつの日からか新入社員に一から十までを教える立場になっていました。
トラック運転手になりたての頃は、車庫入れなども下手で、配車先の荷受け係の人たちにボロクソに言われて続けていましたが、事務所配属となりトラックに乗務する機会が少なくなって、久しぶりに出入りしていた納品先を訪れた際、新たに取引先をご紹介をいただいたりと、いつのまにか信頼されるようになりました。
愛車もトヨタのヴィスタ、カルディナ、ホンダのレジェンドと、頻繁に乗り換えていた時期でもありました。
きっかけが習慣を変え、「必ずできる」という会長の言葉に潜在意識を刺激されたことなどを始め、ここで得た様々な体験が、自分の能力を信じ高めるという結果に導いてくれたようです。
30歳を過ぎて免許を取ったのですが、果たして免許があったから、敢えてこの仕事を選んだのでしょうか?それとも不思議と未来を予知していたから免許を取得したのでしょうか。
この経験を振り返り思うことですが、当初は何も役に立たず、まったく必要とされない自分でありました。でも時が経ち、運送会社の社員として貢献出来たのは事実で、それが現状にも良い形で現れています。夢をかなえたのも事実。まずまずの「成功」だったのです。

Posted by KURACHAN♪ at 16:43│Comments(0)
│僕をたどる物語