2024年01月17日
印刷業界での思い出☆営業さんに捧ぐ思い
今日は阪神淡路大震災から29年が経った日です。
その出来事は生涯忘れられないものでしたが、
振り返ってみると、その経験が僕の人生に新たな意味をもたらしました。
あれから これまで いろいろなことがありました。
この日になると 必ず思い出す 不思議な体験があります。
数年前、弊所ホームページのブログ(新着情報)にて投稿した物語風の記事です。
原文のまま 以下の通りこちらに転載してご紹介させていただきます。
この物語を初めて投稿した際、あの時の苦難や喪失感を思い出してしまいましたが
それ以上に震災そのものの経験が僕を強くし、成長させてくれたことに気づいています。
地域の結束や支え合い、助け合いの中で見つけた温かさは、
人々が共に乗り越えられる力を教えてくれました。
この29年間で、僕たちは一緒に立ち上がり、再建の道を歩んできました。
復興のプロセスで得た知恵や経験が、今日の僕たちを支えています。
これからも、困難な状況に立ち向かい、前向きな未来を築くために努力します。
今年も早々に予期せぬ出来事が多々起きていて
これからも どんなことがあるのかもわからない今日この頃だったりしますが
支援してくださったすべての方々への感謝の気持ちだけは失くしません。
今日は過去の辛い出来事に思いを馳せながらも、
皆さんが 未来への希望を胸に、前進する日となりますように。

その出来事は生涯忘れられないものでしたが、
振り返ってみると、その経験が僕の人生に新たな意味をもたらしました。
あれから これまで いろいろなことがありました。
この日になると 必ず思い出す 不思議な体験があります。
数年前、弊所ホームページのブログ(新着情報)にて投稿した物語風の記事です。
原文のまま 以下の通りこちらに転載してご紹介させていただきます。
印刷会社の営業さんへ愛をこめて
今から四半世紀前、大阪市内の広告制作会社に勤めていた頃、移動するのには少々遠距離の得意先へ直行していた時期がありました。仕事をいただきに伺っていたのは東大阪市内の近鉄沿線に存在していた中堅の印刷会社で、大阪まごころ印刷株式会社(この名称は架空のものです)といいました。
そこには もちろんデザイン制作部もありましたが、自社で賄えないようなものや多少ややこしい内容の仕事などがあれば外注に任せるということで、当時の我々は完全に下請けという存在でした。
毎朝、会社に出勤する前にその印刷会社へ直行し、我々と似たようないくつかの制作会社の営業やデザイナー、あるいは経営者自身が集まっている会議室に入ります。そこで担当の営業さんを通して仕事をいただいたり、直接デザイン制作部の方との打ち合わせをしたり、新たな依頼や その他の打ち合わせなどががければ、何も持ち帰らない状態で昼頃に会社へ出勤することもありました。
大阪まごころ印刷に僕が初めて訪れたのはバブル崩壊から数年が経っていましたが、工場と併設する本社の社屋には かなりの人数の営業さんがいました。営業部も三部まであって、さらに一課一係というように それぞれの部署の中で細かく分けられていました。バブル景気の頃は相当活気があったように思われます。
それだけの人数の営業さんがいる中には、とても馬の合う人がいる一方で苦手な人もいたりします。やはり苦手な人との仕事は続かないものですし、一応の仕事を選ぶ権限は僕が持っていたということもあって、数回やり取りを繰り返しているうちに自然と苦手な人からは仕事を戴かなくなりました。なので人間関係とかでの悩みは少なかったです。逆に、仕事以外でも呑みに誘ってもらったり、休日には仲の良いグループで一緒に甲子園の野球観戦やキャンプに行ったり、さらには印刷会社の忘年会にも参加させてもらったりと 楽しい思い出のほうが多いですね。
1994年頃から会社がデザイン制作のデジタル化を本格的に進めることになり、僕はその先駆け的なデジタルデザイン部の責任者として大阪市中央区のオフィスビルにて勤務することになったので、印刷会社への営業業務は後輩の小畑くん(仮名)に引継ぎました。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生しました。当時 大阪府池田市に住んでいた僕は、その日だけは会社を休み、翌日から出社しました。大阪市内では地震の影響が比較的には少なかったのですが、身体に感じる余震の数は翌日になっても多くありました。
一方、東大阪の大阪まごころ印刷は地震発生当日も通常通り営業しており、後輩の小畑くんもいつも通り仕事をいただきに伺ったようです。
大阪まごころ印刷は大阪府下以外に東京などにも工場があり、京都や神戸にも営業所がありました。
地震から数日経って小畑くんと会った際に聞いた話ですが、この前年に大阪まごころ印刷の神戸営業所へ転勤していた営業部の北川さん(仮名/20代女性)が、神戸市内の自宅マンションにて被災し亡くなられたということでした。東大阪の本社におられた当時、北川さんは営業部のサポート的な業務をされていました。北川さんは美人で気さくな性格で 社内外でも人気があり、まだまだ若くこれからだという時だっただけに本当に残念でした。
震災の翌年、僕は大阪市西区にてデザイン会社を設立しました。ある日、大阪まごころ印刷を数ヶ月前に退職したという仲良しの小森さん(仮名/まもなく30歳のイケメン男性)から、会って話をしたいという連絡がありました。早速翌日に小森さんの転職先の製パン会社さん近くの待ち合わせ場所に出向きました。約一年ぶりの再会でした。小森さんが印刷会社を辞めた理由は、デジタル化に伴って従来の業務形態が大きく変わりつつある印刷業の将来が不安になったからだそうです。今は製パン会社さんで主にトラックに乗って配送の仕事をしているとのことでした。
その日はランチを食べながらお互いの近況を語り合いました。大阪まごころ印刷で営業をされていた当時の小森さんは悩みなど一切抱えこないタイプに思っていましたし、転職してからもその悩みが続いているように思えたのは意外でした。
それから数ヶ月後、小森さんから連絡がありました。昔の仲間と神戸で会社を立ち上げたとのこと。紹介したいから神戸に一度来てくれないかということでした。
約束の日、僕は阪急電車に乗って岡本駅へ行きました。駅を降りて南側から西へ少し歩いたところの大きめの道路のところに小森さんが車で迎えに来てくれました。久しぶりに会った小森さんは営業時代と同じ明るい笑顔でイケメン。そしてとても元気そうでした。
当時は神戸の地理がよくわからなかったので、どこをどう通ったのかは覚えていません。それに、知らない土地だったので、震災から一年以上経っていた当時の現状と震災前の現状とかがどのように変わっているのかなども考えませんでした。
車で数分ほどのところの川沿いの公園の前に建つ5階建ぐらいの古い茶色っぽいビルに到着。1Fにシャッター扉があり、その中が駐車スペースになっていました。そこに車を入れた後、年季の入ったエレベーターに乗りました。最上階のフロアから部屋に案内されました。まだ表札のかかっていない事務所の扉を開ける音が妙に大きく感じました。
だだっ広い室内には設立して間もないからか、いくつかの机と棚とぐらいしか目立つものがなく、壁には額に入った許可証のようなものが何枚か飾られているだけでした。
一つの机には眼鏡をかけた女性がいらっしゃって挨拶をしてくださいました。総務をご担当される50歳ぐらいの気品漂う女性で、初めてお会いしました。申し訳ないのですが お名前は思い出せません。「神戸は素敵なところでしょ?倉橋さんは神戸によく来られるの?」という問いかけに「いえ、あまり神戸には来ません。大阪のほうが僕は好きです。神戸より ずっと都会ですし」と安易に応えてしまったところ、「何言ってるの。神戸のほうが大阪よりずっとお洒落で都会よ」と顔は笑っていましたが、なんだか怒られたような印象がありました。(しまった!このおばさん、生粋の神戸マダムなんや…)
そして、小森さんから ようやく新しい名刺をいただきました。神戸こうなん印刷株式会社(これも架空名称)という社名でした。「未来を案じていた印刷業界に復帰されたのですね。よかったです」
そんな話をしているうちに、突然「久しぶり!」と大声がして振り向くと、大阪まごころ印刷の営業第一部二課の課長だった寒田さん(仮名/50代男性)が現れました。寒田さんは どちらかと言えば強面で取っつきにくく苦手なタイプだったので、僕との関わりはそんなに多くはなかったのですが、この再会時には気さくで別人のような印象を受けました。寒田さんからいただいた名刺の肩書には代表取締役と記されていました。加えて寒田さんは労働大臣認定の印刷営業士という資格を持っていらっしゃいます。
過去にはあり得ないほどの和気藹々な感じで寒田さんと印刷の話などで盛り上がりました。
ふと気配を感じて違う方向に目を向けると、一人の若い女性が笑顔で立っていました。
「え?北川さん??」すると寒田さんが「北川さんも これから一緒に頑張ってくれるんよ!」と満面の笑みで言いました。
(北川さんが震災で亡くなったというのはデマだったのか)(小畑め、よりによって とんでもないウソをついたな!)(今になって北川さんから震災時のこと聞くのも申し訳ないな)(とにかく相変わらず美人で元気そうやん)などと心の中で自然と自分なりに納得していました。
和やかな雰囲気であっという間に時間が過ぎ、「これからもいろいろと倉橋さんに協力していただきたいのでまた連絡します」と言う小森さんに岡本駅まで送っていただきました。
帰りの阪急電車の車内で ちょっと考えていたことですが、寒田さんと北川さんは外から入って来られた気配がなかったので、最初から部屋にいたのかが不思議に思いました。たしか、入り口の扉を開ける時に大きな音がしていたのに、まったく開閉音がしなかったからです。しかし、あの部屋の奥とかに別の部屋があるのかなと思ったりもしました。
とにかく、これから 彼らと一緒に仕事をしたいなという気持ちが高くなっていました。
ところが、数ヶ月過ぎても小森さんから連絡は来ませんでした。気になって彼の携帯に連絡しましたが、電話番号が現在使われていない状態でした。携帯電話の普及が進み始めた頃で、これからはますます携帯電話が必要な世の中が来るのに どうしたのでしょうか。そして、小森さんと寒田さんから名刺をいただいてファイリングしていたはずなのに、なぜかそれも見つかりません。
それからの僕は、次第に波浪の如く日々を送る中にあったので、後にこのことについて考えることは一切なくなりました。順風満帆には程遠い状態に陥ってしまいました。20世紀の終わりから5年以上もの長きに渡り、デザイン業界を離れてしまいます。
運送会社に就職したある日のこと、JR神戸線の住吉駅近くの納品場所に4tトラックで訪れました。川沿いの公園に見覚えがありました。(そういえば、この公園の前にあの茶色のビルがあったな。あのビルがあったんは住吉やったんや)と記憶がよみがえりました。納品先の人に「あの更地のところにあった茶色のビルはいつ無くなったんですか?」と尋ねました。すると「あそこは民家がいくつかあった場所でビルなんか建ってなかったよ」と意外な答えが返ってきました。
今となっては、この出来事が夢だったのか何だったのかはよくわからない感じになってしまっています。自分にとっては怒濤の時代の中での ほんの一瞬の出来事だったからでしょうか。でも、阪急電車神戸線の岡本駅付近を通るたびに、イケメンの小森さん、コワモテの寒田さん、美人の北川さん、神戸マダムさんのことを思い出すのです。
僕はデザインの現場に復帰して15年経ちました。印刷会社さんに関わって30年以上になります。もちろん今でも印刷会社の営業さんが大好きです。
※2020年1月13日投稿
江井島広告制作ホームページBLOG 日々の出来事を語る より転載
この物語を初めて投稿した際、あの時の苦難や喪失感を思い出してしまいましたが
それ以上に震災そのものの経験が僕を強くし、成長させてくれたことに気づいています。
地域の結束や支え合い、助け合いの中で見つけた温かさは、
人々が共に乗り越えられる力を教えてくれました。
この29年間で、僕たちは一緒に立ち上がり、再建の道を歩んできました。
復興のプロセスで得た知恵や経験が、今日の僕たちを支えています。
これからも、困難な状況に立ち向かい、前向きな未来を築くために努力します。
今年も早々に予期せぬ出来事が多々起きていて
これからも どんなことがあるのかもわからない今日この頃だったりしますが
支援してくださったすべての方々への感謝の気持ちだけは失くしません。
今日は過去の辛い出来事に思いを馳せながらも、
皆さんが 未来への希望を胸に、前進する日となりますように。

Posted by KURACHAN♪ at 13:17│Comments(0)
│僕をたどる物語