2024年01月18日
物流回想録:未来への航跡004☆悲運の一瞬!平ボディトラックでの材木輸送
僕が運送会社に入社して半年が経った頃、とある材木会社での貸切運送業務に携わりました。
専属での仕事から始まり、その後もスポット的な貸切輸送が何度かありました。
そんな中で経験した平ボディトラックでの材木輸送にまつわるエピソードをシェアします。
【004☆終日貸切・材木輸送業務】(4t 平ボディ)
三田発(7:00出発)→三木(8:00~)→終日貸切(各方面)
→三木再び(17:00まで)→三田帰着(18:30業務終了)
この運送業務では、荷崩れ防止のためにラッシング作業が欠かせません。
ラッシングはワイヤロープやフックを使い、積荷を確実に固定する作業。
特に平ボディトラックでは、箱のない荷台ゆえにラッシングがより重要です。
しかし、ラッシングを怠ると荷崩れ事故のリスクが高まります。
注意深い作業が求められる中、
カーブや急ブレーキによる荷崩れも防げず、リスクとの闘いが続きます。
僕自身が経験した失敗についてお話しします。
上り坂のカーブでハンドルを急に切った瞬間、遠心力が働き
積荷がラッシングベルトを引き裂り横に飛び出してしまいました。
幸いにも納品場所近くでフォークリフトの助けを借り、事なきを得たものの
その経験は忘れられません。
また、材木の重量にも注意が必要です。
舞鶴自動車道を走行中には、パトロール車両に呼び止められ、
福知山インターのカンカン場でトラックの重量を検量されることも。
その結果、最大積載量の2倍超えの過積載が発覚しました。
過積載の責任は荷主と運転手で議論が起きましたが、
運転手には減点と罰金が科せられる結果となりました。
荷主の要望に最大限応え、確実に安全に納品することが運送業務の魅力であり、責務です。
しかし、荷物の積み過ぎによる事故は現実に多く発生しています。
振り返ってみれば、この経験が僕にとって初めての道路交通法違反であり
運送業務の本質について深く考えさせられる出来事でした。
この出来事については 後に出版したプチ自分史【僕をたどる物語】にも書いております。
僕の50代前半までの生涯を30ページ程にまとめた短いお話ですので すぐに読み切れます。
以下のリンクからPDFデータをダウンロードして是非お読みいただければ幸いです。
⇒ 僕をたどる物語

専属での仕事から始まり、その後もスポット的な貸切輸送が何度かありました。
そんな中で経験した平ボディトラックでの材木輸送にまつわるエピソードをシェアします。
【004☆終日貸切・材木輸送業務】(4t 平ボディ)
三田発(7:00出発)→三木(8:00~)→終日貸切(各方面)
→三木再び(17:00まで)→三田帰着(18:30業務終了)
この運送業務では、荷崩れ防止のためにラッシング作業が欠かせません。
ラッシングはワイヤロープやフックを使い、積荷を確実に固定する作業。
特に平ボディトラックでは、箱のない荷台ゆえにラッシングがより重要です。
しかし、ラッシングを怠ると荷崩れ事故のリスクが高まります。
注意深い作業が求められる中、
カーブや急ブレーキによる荷崩れも防げず、リスクとの闘いが続きます。
僕自身が経験した失敗についてお話しします。
上り坂のカーブでハンドルを急に切った瞬間、遠心力が働き
積荷がラッシングベルトを引き裂り横に飛び出してしまいました。
幸いにも納品場所近くでフォークリフトの助けを借り、事なきを得たものの
その経験は忘れられません。
また、材木の重量にも注意が必要です。
舞鶴自動車道を走行中には、パトロール車両に呼び止められ、
福知山インターのカンカン場でトラックの重量を検量されることも。
その結果、最大積載量の2倍超えの過積載が発覚しました。
過積載の責任は荷主と運転手で議論が起きましたが、
運転手には減点と罰金が科せられる結果となりました。
荷主の要望に最大限応え、確実に安全に納品することが運送業務の魅力であり、責務です。
しかし、荷物の積み過ぎによる事故は現実に多く発生しています。
振り返ってみれば、この経験が僕にとって初めての道路交通法違反であり
運送業務の本質について深く考えさせられる出来事でした。
この出来事については 後に出版したプチ自分史【僕をたどる物語】にも書いております。
僕の50代前半までの生涯を30ページ程にまとめた短いお話ですので すぐに読み切れます。
以下のリンクからPDFデータをダウンロードして是非お読みいただければ幸いです。
⇒ 僕をたどる物語

2024年01月17日
印刷業界での思い出☆営業さんに捧ぐ思い
今日は阪神淡路大震災から29年が経った日です。
その出来事は生涯忘れられないものでしたが、
振り返ってみると、その経験が僕の人生に新たな意味をもたらしました。
あれから これまで いろいろなことがありました。
この日になると 必ず思い出す 不思議な体験があります。
数年前、弊所ホームページのブログ(新着情報)にて投稿した物語風の記事です。
原文のまま 以下の通りこちらに転載してご紹介させていただきます。
この物語を初めて投稿した際、あの時の苦難や喪失感を思い出してしまいましたが
それ以上に震災そのものの経験が僕を強くし、成長させてくれたことに気づいています。
地域の結束や支え合い、助け合いの中で見つけた温かさは、
人々が共に乗り越えられる力を教えてくれました。
この29年間で、僕たちは一緒に立ち上がり、再建の道を歩んできました。
復興のプロセスで得た知恵や経験が、今日の僕たちを支えています。
これからも、困難な状況に立ち向かい、前向きな未来を築くために努力します。
今年も早々に予期せぬ出来事が多々起きていて
これからも どんなことがあるのかもわからない今日この頃だったりしますが
支援してくださったすべての方々への感謝の気持ちだけは失くしません。
今日は過去の辛い出来事に思いを馳せながらも、
皆さんが 未来への希望を胸に、前進する日となりますように。

その出来事は生涯忘れられないものでしたが、
振り返ってみると、その経験が僕の人生に新たな意味をもたらしました。
あれから これまで いろいろなことがありました。
この日になると 必ず思い出す 不思議な体験があります。
数年前、弊所ホームページのブログ(新着情報)にて投稿した物語風の記事です。
原文のまま 以下の通りこちらに転載してご紹介させていただきます。
印刷会社の営業さんへ愛をこめて
今から四半世紀前、大阪市内の広告制作会社に勤めていた頃、移動するのには少々遠距離の得意先へ直行していた時期がありました。仕事をいただきに伺っていたのは東大阪市内の近鉄沿線に存在していた中堅の印刷会社で、大阪まごころ印刷株式会社(この名称は架空のものです)といいました。
そこには もちろんデザイン制作部もありましたが、自社で賄えないようなものや多少ややこしい内容の仕事などがあれば外注に任せるということで、当時の我々は完全に下請けという存在でした。
毎朝、会社に出勤する前にその印刷会社へ直行し、我々と似たようないくつかの制作会社の営業やデザイナー、あるいは経営者自身が集まっている会議室に入ります。そこで担当の営業さんを通して仕事をいただいたり、直接デザイン制作部の方との打ち合わせをしたり、新たな依頼や その他の打ち合わせなどががければ、何も持ち帰らない状態で昼頃に会社へ出勤することもありました。
大阪まごころ印刷に僕が初めて訪れたのはバブル崩壊から数年が経っていましたが、工場と併設する本社の社屋には かなりの人数の営業さんがいました。営業部も三部まであって、さらに一課一係というように それぞれの部署の中で細かく分けられていました。バブル景気の頃は相当活気があったように思われます。
それだけの人数の営業さんがいる中には、とても馬の合う人がいる一方で苦手な人もいたりします。やはり苦手な人との仕事は続かないものですし、一応の仕事を選ぶ権限は僕が持っていたということもあって、数回やり取りを繰り返しているうちに自然と苦手な人からは仕事を戴かなくなりました。なので人間関係とかでの悩みは少なかったです。逆に、仕事以外でも呑みに誘ってもらったり、休日には仲の良いグループで一緒に甲子園の野球観戦やキャンプに行ったり、さらには印刷会社の忘年会にも参加させてもらったりと 楽しい思い出のほうが多いですね。
1994年頃から会社がデザイン制作のデジタル化を本格的に進めることになり、僕はその先駆け的なデジタルデザイン部の責任者として大阪市中央区のオフィスビルにて勤務することになったので、印刷会社への営業業務は後輩の小畑くん(仮名)に引継ぎました。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生しました。当時 大阪府池田市に住んでいた僕は、その日だけは会社を休み、翌日から出社しました。大阪市内では地震の影響が比較的には少なかったのですが、身体に感じる余震の数は翌日になっても多くありました。
一方、東大阪の大阪まごころ印刷は地震発生当日も通常通り営業しており、後輩の小畑くんもいつも通り仕事をいただきに伺ったようです。
大阪まごころ印刷は大阪府下以外に東京などにも工場があり、京都や神戸にも営業所がありました。
地震から数日経って小畑くんと会った際に聞いた話ですが、この前年に大阪まごころ印刷の神戸営業所へ転勤していた営業部の北川さん(仮名/20代女性)が、神戸市内の自宅マンションにて被災し亡くなられたということでした。東大阪の本社におられた当時、北川さんは営業部のサポート的な業務をされていました。北川さんは美人で気さくな性格で 社内外でも人気があり、まだまだ若くこれからだという時だっただけに本当に残念でした。
震災の翌年、僕は大阪市西区にてデザイン会社を設立しました。ある日、大阪まごころ印刷を数ヶ月前に退職したという仲良しの小森さん(仮名/まもなく30歳のイケメン男性)から、会って話をしたいという連絡がありました。早速翌日に小森さんの転職先の製パン会社さん近くの待ち合わせ場所に出向きました。約一年ぶりの再会でした。小森さんが印刷会社を辞めた理由は、デジタル化に伴って従来の業務形態が大きく変わりつつある印刷業の将来が不安になったからだそうです。今は製パン会社さんで主にトラックに乗って配送の仕事をしているとのことでした。
その日はランチを食べながらお互いの近況を語り合いました。大阪まごころ印刷で営業をされていた当時の小森さんは悩みなど一切抱えこないタイプに思っていましたし、転職してからもその悩みが続いているように思えたのは意外でした。
それから数ヶ月後、小森さんから連絡がありました。昔の仲間と神戸で会社を立ち上げたとのこと。紹介したいから神戸に一度来てくれないかということでした。
約束の日、僕は阪急電車に乗って岡本駅へ行きました。駅を降りて南側から西へ少し歩いたところの大きめの道路のところに小森さんが車で迎えに来てくれました。久しぶりに会った小森さんは営業時代と同じ明るい笑顔でイケメン。そしてとても元気そうでした。
当時は神戸の地理がよくわからなかったので、どこをどう通ったのかは覚えていません。それに、知らない土地だったので、震災から一年以上経っていた当時の現状と震災前の現状とかがどのように変わっているのかなども考えませんでした。
車で数分ほどのところの川沿いの公園の前に建つ5階建ぐらいの古い茶色っぽいビルに到着。1Fにシャッター扉があり、その中が駐車スペースになっていました。そこに車を入れた後、年季の入ったエレベーターに乗りました。最上階のフロアから部屋に案内されました。まだ表札のかかっていない事務所の扉を開ける音が妙に大きく感じました。
だだっ広い室内には設立して間もないからか、いくつかの机と棚とぐらいしか目立つものがなく、壁には額に入った許可証のようなものが何枚か飾られているだけでした。
一つの机には眼鏡をかけた女性がいらっしゃって挨拶をしてくださいました。総務をご担当される50歳ぐらいの気品漂う女性で、初めてお会いしました。申し訳ないのですが お名前は思い出せません。「神戸は素敵なところでしょ?倉橋さんは神戸によく来られるの?」という問いかけに「いえ、あまり神戸には来ません。大阪のほうが僕は好きです。神戸より ずっと都会ですし」と安易に応えてしまったところ、「何言ってるの。神戸のほうが大阪よりずっとお洒落で都会よ」と顔は笑っていましたが、なんだか怒られたような印象がありました。(しまった!このおばさん、生粋の神戸マダムなんや…)
そして、小森さんから ようやく新しい名刺をいただきました。神戸こうなん印刷株式会社(これも架空名称)という社名でした。「未来を案じていた印刷業界に復帰されたのですね。よかったです」
そんな話をしているうちに、突然「久しぶり!」と大声がして振り向くと、大阪まごころ印刷の営業第一部二課の課長だった寒田さん(仮名/50代男性)が現れました。寒田さんは どちらかと言えば強面で取っつきにくく苦手なタイプだったので、僕との関わりはそんなに多くはなかったのですが、この再会時には気さくで別人のような印象を受けました。寒田さんからいただいた名刺の肩書には代表取締役と記されていました。加えて寒田さんは労働大臣認定の印刷営業士という資格を持っていらっしゃいます。
過去にはあり得ないほどの和気藹々な感じで寒田さんと印刷の話などで盛り上がりました。
ふと気配を感じて違う方向に目を向けると、一人の若い女性が笑顔で立っていました。
「え?北川さん??」すると寒田さんが「北川さんも これから一緒に頑張ってくれるんよ!」と満面の笑みで言いました。
(北川さんが震災で亡くなったというのはデマだったのか)(小畑め、よりによって とんでもないウソをついたな!)(今になって北川さんから震災時のこと聞くのも申し訳ないな)(とにかく相変わらず美人で元気そうやん)などと心の中で自然と自分なりに納得していました。
和やかな雰囲気であっという間に時間が過ぎ、「これからもいろいろと倉橋さんに協力していただきたいのでまた連絡します」と言う小森さんに岡本駅まで送っていただきました。
帰りの阪急電車の車内で ちょっと考えていたことですが、寒田さんと北川さんは外から入って来られた気配がなかったので、最初から部屋にいたのかが不思議に思いました。たしか、入り口の扉を開ける時に大きな音がしていたのに、まったく開閉音がしなかったからです。しかし、あの部屋の奥とかに別の部屋があるのかなと思ったりもしました。
とにかく、これから 彼らと一緒に仕事をしたいなという気持ちが高くなっていました。
ところが、数ヶ月過ぎても小森さんから連絡は来ませんでした。気になって彼の携帯に連絡しましたが、電話番号が現在使われていない状態でした。携帯電話の普及が進み始めた頃で、これからはますます携帯電話が必要な世の中が来るのに どうしたのでしょうか。そして、小森さんと寒田さんから名刺をいただいてファイリングしていたはずなのに、なぜかそれも見つかりません。
それからの僕は、次第に波浪の如く日々を送る中にあったので、後にこのことについて考えることは一切なくなりました。順風満帆には程遠い状態に陥ってしまいました。20世紀の終わりから5年以上もの長きに渡り、デザイン業界を離れてしまいます。
運送会社に就職したある日のこと、JR神戸線の住吉駅近くの納品場所に4tトラックで訪れました。川沿いの公園に見覚えがありました。(そういえば、この公園の前にあの茶色のビルがあったな。あのビルがあったんは住吉やったんや)と記憶がよみがえりました。納品先の人に「あの更地のところにあった茶色のビルはいつ無くなったんですか?」と尋ねました。すると「あそこは民家がいくつかあった場所でビルなんか建ってなかったよ」と意外な答えが返ってきました。
今となっては、この出来事が夢だったのか何だったのかはよくわからない感じになってしまっています。自分にとっては怒濤の時代の中での ほんの一瞬の出来事だったからでしょうか。でも、阪急電車神戸線の岡本駅付近を通るたびに、イケメンの小森さん、コワモテの寒田さん、美人の北川さん、神戸マダムさんのことを思い出すのです。
僕はデザインの現場に復帰して15年経ちました。印刷会社さんに関わって30年以上になります。もちろん今でも印刷会社の営業さんが大好きです。
※2020年1月13日投稿
江井島広告制作ホームページBLOG 日々の出来事を語る より転載
この物語を初めて投稿した際、あの時の苦難や喪失感を思い出してしまいましたが
それ以上に震災そのものの経験が僕を強くし、成長させてくれたことに気づいています。
地域の結束や支え合い、助け合いの中で見つけた温かさは、
人々が共に乗り越えられる力を教えてくれました。
この29年間で、僕たちは一緒に立ち上がり、再建の道を歩んできました。
復興のプロセスで得た知恵や経験が、今日の僕たちを支えています。
これからも、困難な状況に立ち向かい、前向きな未来を築くために努力します。
今年も早々に予期せぬ出来事が多々起きていて
これからも どんなことがあるのかもわからない今日この頃だったりしますが
支援してくださったすべての方々への感謝の気持ちだけは失くしません。
今日は過去の辛い出来事に思いを馳せながらも、
皆さんが 未来への希望を胸に、前進する日となりますように。

2024年01月16日
物流回想録:未来への航跡003☆丹波氷上~北播磨宅配便…そして大阪摂津へ
こんにちは、みなさん!
少しだけ明るいイメージのカテゴリー名に変えました。
さて まず始めにですが…
本来、回想録をブログに書き残しておくならば
入社したての頃の業務内容から順番に記していくべきだと思うのですが
最近、物忘れが酷く(笑) 思い出すだけでも大変なので
適当に思い出した運行業務から書き記していくことをご了承ください。
↑↑↑というようなことを15年前に書いていました。
今回も時系列にて書き直すべきでしたが、気づきませんでした。
当時よりもさらに物忘れがひどくなっているようです。
このブログを書籍化する際には 時の流れと並行した形にて再編集したいと思います。
さてさて、物流回想録:未来への航跡 その3回目のエピソードは、
トラックドライバーとして初めて経験した業務【宅配】をご紹介します。
【003☆R175周辺の宅配+大阪摂津集荷】(2t 箱)
三田(4:00~荷積み~6:00出発)
→社~滝野~西脇~氷上~加西(6:30~配達~12:00)
→大阪摂津(15:00~集荷~15:30)→三田(17:30業務終了)
入社して3日目からは、初心者にぴったりのコースを学ぶことになりました。
それが宅配です。
宅配といっても、一般家庭向けの荷物は少なく、ほとんどが会社やお店への届けものです。
未明の4時に宅配メンバーが集まり、協力して各トラックに荷物を積んで、
6時には会社を一斉に出発します。
このコースは国道175号線沿いを中心とした地域が配達先で、
一番初めに荷物を届ける社町(現在の加東市内)の宅配先は
山道であり、しかも早朝なので、なんと6時半には到着します。
その時間帯にはまだ誰も出勤しておらず、待っている方もいないため、
指定された無人の場所に荷物を置くことになります。これを『置配(オキハイ)』と呼びます。
配達員が用意された受領印を受け取り印鑑を押し、納品完了です。
このような荷物は通常、その日の現場などで必要とされ、
もしも荷物がなければその日は仕事にならないこともあります。
置配はそういった現場で働く人たちにとって、当然ありがたいものなのです。
また、置配は荷送り人と運送屋、荷受人の信頼関係で成り立っています。
このコースでは置配を含め、連日15~20件近くの荷物を配達し、
置配する場所はいつも同じで、ほぼ毎日が活気に満ちていました。
社町から西脇で数軒の会社に置配し、国道175号線を北上して
最後の置配場所である氷上(現在の丹波市内)には通常8時半頃に到着します。
その後南下し、西脇や多可、滝野(現在は加東市)、加西などの地域に配達し、
すべてを午前中には完了させます。
原則として、これらの荷物は午前中必着ですから…。
宅配が終われば、山間の道をドライブして大阪府摂津市内にある運送会社の倉庫へ。
昼に西脇周辺で宅配業務を終えていれば、
13時半から14時頃には既に摂津市内に到着しています。
15時に荷受があるので、それまでの間には長い休憩時間があります。
朝早くからの出勤は少し辛いですが、
夕方5時頃にはまだ明るい時間に三田に戻り、業務を終えられますし、
小さな2tトラックでの業務なので、初心者にも向いているコースだと感じていました。
しかし…
摂津の倉庫ではメーカーの荷物を積むわけですが、多いときで30kgの荷物が3つほど。
一方でまったく集荷する荷物がない日もありました。
会社としては予測外のこともありましたが、
大阪まで行って、空気を運んで帰るだけでは意味がありません。
数ヶ月後、集荷業務は打ち切りとなり、宅配コース全体が大幅に見直され、
新しい体制での運行が始まりました。
その頃から、運送業界は次第に厳しい状況になり、
宅配業務を含めた運送業務全体が過酷なものに変わっていく中
僕たちトラックドライバーは新たな挑戦に向けて前進していくこととなりました。

ところで、ここでご紹介しました宅配エピソードの舞台の
僕が初めて運送業務に就いた主要コースは 北播磨と称される地域です。
北緯35度線と東経135度線の交点に位置し、
西脇市・三木市・小野市・加西市・加東市・多可町の
5市1町で構成される兵庫県北播磨地域は
のどかでゆったりとした時間の流れを感じることができます。
トラックドライバーだった頃はもちろん
兵庫播磨てんこもりのスタッフだった15年前にも
北播磨で生活されている皆さんとたくさん知り合うことができました。
公私共に 楽しく嬉しい幸せな思い出が いっぱいあります。
皆さん ありがとう。
少しだけ明るいイメージのカテゴリー名に変えました。
さて まず始めにですが…
本来、回想録をブログに書き残しておくならば
入社したての頃の業務内容から順番に記していくべきだと思うのですが
最近、物忘れが酷く(笑) 思い出すだけでも大変なので
適当に思い出した運行業務から書き記していくことをご了承ください。
↑↑↑というようなことを15年前に書いていました。
今回も時系列にて書き直すべきでしたが、気づきませんでした。
当時よりもさらに物忘れがひどくなっているようです。
このブログを書籍化する際には 時の流れと並行した形にて再編集したいと思います。
さてさて、物流回想録:未来への航跡 その3回目のエピソードは、
トラックドライバーとして初めて経験した業務【宅配】をご紹介します。
【003☆R175周辺の宅配+大阪摂津集荷】(2t 箱)
三田(4:00~荷積み~6:00出発)
→社~滝野~西脇~氷上~加西(6:30~配達~12:00)
→大阪摂津(15:00~集荷~15:30)→三田(17:30業務終了)
入社して3日目からは、初心者にぴったりのコースを学ぶことになりました。
それが宅配です。
宅配といっても、一般家庭向けの荷物は少なく、ほとんどが会社やお店への届けものです。
未明の4時に宅配メンバーが集まり、協力して各トラックに荷物を積んで、
6時には会社を一斉に出発します。
このコースは国道175号線沿いを中心とした地域が配達先で、
一番初めに荷物を届ける社町(現在の加東市内)の宅配先は
山道であり、しかも早朝なので、なんと6時半には到着します。
その時間帯にはまだ誰も出勤しておらず、待っている方もいないため、
指定された無人の場所に荷物を置くことになります。これを『置配(オキハイ)』と呼びます。
配達員が用意された受領印を受け取り印鑑を押し、納品完了です。
このような荷物は通常、その日の現場などで必要とされ、
もしも荷物がなければその日は仕事にならないこともあります。
置配はそういった現場で働く人たちにとって、当然ありがたいものなのです。
また、置配は荷送り人と運送屋、荷受人の信頼関係で成り立っています。
このコースでは置配を含め、連日15~20件近くの荷物を配達し、
置配する場所はいつも同じで、ほぼ毎日が活気に満ちていました。
社町から西脇で数軒の会社に置配し、国道175号線を北上して
最後の置配場所である氷上(現在の丹波市内)には通常8時半頃に到着します。
その後南下し、西脇や多可、滝野(現在は加東市)、加西などの地域に配達し、
すべてを午前中には完了させます。
原則として、これらの荷物は午前中必着ですから…。
宅配が終われば、山間の道をドライブして大阪府摂津市内にある運送会社の倉庫へ。
昼に西脇周辺で宅配業務を終えていれば、
13時半から14時頃には既に摂津市内に到着しています。
15時に荷受があるので、それまでの間には長い休憩時間があります。
朝早くからの出勤は少し辛いですが、
夕方5時頃にはまだ明るい時間に三田に戻り、業務を終えられますし、
小さな2tトラックでの業務なので、初心者にも向いているコースだと感じていました。
しかし…
摂津の倉庫ではメーカーの荷物を積むわけですが、多いときで30kgの荷物が3つほど。
一方でまったく集荷する荷物がない日もありました。
会社としては予測外のこともありましたが、
大阪まで行って、空気を運んで帰るだけでは意味がありません。
数ヶ月後、集荷業務は打ち切りとなり、宅配コース全体が大幅に見直され、
新しい体制での運行が始まりました。
その頃から、運送業界は次第に厳しい状況になり、
宅配業務を含めた運送業務全体が過酷なものに変わっていく中
僕たちトラックドライバーは新たな挑戦に向けて前進していくこととなりました。

ところで、ここでご紹介しました宅配エピソードの舞台の
僕が初めて運送業務に就いた主要コースは 北播磨と称される地域です。
北緯35度線と東経135度線の交点に位置し、
西脇市・三木市・小野市・加西市・加東市・多可町の
5市1町で構成される兵庫県北播磨地域は
のどかでゆったりとした時間の流れを感じることができます。
トラックドライバーだった頃はもちろん
兵庫播磨てんこもりのスタッフだった15年前にも
北播磨で生活されている皆さんとたくさん知り合うことができました。
公私共に 楽しく嬉しい幸せな思い出が いっぱいあります。
皆さん ありがとう。
2024年01月15日
物流回想録:未来への航跡002☆連日の定期便!明石~商都~湾岸を駆けろ!
こうして改めて、運送業の日々を振り返ると、
なんだか今でもトラックに乗っている感覚が不思議なほど蘇ってきますね(笑)。
【002☆メーカー工場製品倉庫運搬業務】
(4t ワイド ウイング)
三田(6:00出発)→明石魚住(7:30~荷降ろし~8:30)
→稲美(9:00 業務伝達等)→茨木(10:00~荷積み~11:00)
→堺(13:00~荷降ろし~13:30)→茨木(14:30~荷積み~15:00)
→堺(16:00~荷降ろし~16:30~宵積み~17:00)
→大阪此花(17:30~宵積み~18:00)→三田(20:00業務終了)
どうでしょう、この仕事は本当にエキサイティングです。
早朝、三田の会社を発ち、吉川・三木を経由して明石市魚住に向かいます。
荷降ろしが終われば、稲美にある元請けの運送会社で業務連絡や高速券の受け取り。
そして、三木小野インターから山陽・中国・名神の高速道路を駆け抜け、
大阪茨木の工場に到着します。
茨木の工場から製品を積み込んで、堺にある倉庫会社に荷を降ろし、
再び茨木の工場に戻ります。
そして、もう一度製品を積んで堺に向かうのです。
堺の倉庫はちょっと特殊で、降ろす場所が製品の種類や量によって異なります。
でもそのおかげで 毎回新たな指示に挑戦することができます。
そう思えば ワクワク感が高まりますね。
明石の工場に翌朝降ろすための製品を前日の夜に宵積みする作業も行います。
宵積みとは、朝一番の荷物を前日の夜に積んでおくこと。
三田の会社の倉庫内にトラックごと朝の出発時まで大切に保管するので
宵積みしたトラックは なんとなく少し贅沢な感じですね。
茨木~堺を1.5往復した後に向かう場所は 大阪市此花区にある工場です。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンから程近い場所にあるこの工場では
堺の倉庫に無い製品を追加して宵積みします。
(ちなみに この業務を行なっていた当時、USJはまだオープンしていませんでした。)
これでようやく 43号線を経て六甲トンネルを抜けて 三田への帰途となるのです。
それにしても、茨木から堺までの1.5往復はこのコースのハイライト。
通常の近畿自動車道ではなく、名神高速道路から阪神高速池田線を経由して環状線に入り、
湾岸線を走り堺の工場に向かうルートを選んでいました。
もちろん、大渋滞は最大の敵ですが(笑)。
渋滞もなかなかのもので、ただ前進しているだけなのにストレスが溜まりますね。
でも不思議なことに、いつも大渋滞でもなんとか時間通りに運行できるんですよね。
苦笑いしながらも、その不思議な運命感にほっこりしてしまいます。
このコースでは、朝一番に明石市魚住の某メーカーの倉庫で荷降ろしするんですが、
それが現在の住まいからたった2、3分の距離。
当時は三田に居住していたので、やはり会社に帰っていましたが
でも、もし今と 同じ所に住んでいたら
わざわざ遠い道のりを走ることなくそのまま直帰できたのかも知れません。
もっと楽で走行距離も時間も無駄をせずに業務できたのかもしれませんね。
ま、それも でっかいトラックをとめておける場所があったならばのことですし…
このコースも 僕は3ヶ月ほどしか担当しなかったので、
結局は 何とも言えないかな?
全線高速利用で、仕事がプチドライブ旅行のような感覚になることもありますし、
モノの見方次第で、この仕事もちょっとした冒険や楽しいドライブとして考えれば、
もっと気楽に仕事ができたのかもしれませんね… きっと。
なんだか今でもトラックに乗っている感覚が不思議なほど蘇ってきますね(笑)。
【002☆メーカー工場製品倉庫運搬業務】
(4t ワイド ウイング)
三田(6:00出発)→明石魚住(7:30~荷降ろし~8:30)
→稲美(9:00 業務伝達等)→茨木(10:00~荷積み~11:00)
→堺(13:00~荷降ろし~13:30)→茨木(14:30~荷積み~15:00)
→堺(16:00~荷降ろし~16:30~宵積み~17:00)
→大阪此花(17:30~宵積み~18:00)→三田(20:00業務終了)
どうでしょう、この仕事は本当にエキサイティングです。
早朝、三田の会社を発ち、吉川・三木を経由して明石市魚住に向かいます。
荷降ろしが終われば、稲美にある元請けの運送会社で業務連絡や高速券の受け取り。
そして、三木小野インターから山陽・中国・名神の高速道路を駆け抜け、
大阪茨木の工場に到着します。
茨木の工場から製品を積み込んで、堺にある倉庫会社に荷を降ろし、
再び茨木の工場に戻ります。
そして、もう一度製品を積んで堺に向かうのです。
堺の倉庫はちょっと特殊で、降ろす場所が製品の種類や量によって異なります。
でもそのおかげで 毎回新たな指示に挑戦することができます。
そう思えば ワクワク感が高まりますね。
明石の工場に翌朝降ろすための製品を前日の夜に宵積みする作業も行います。
宵積みとは、朝一番の荷物を前日の夜に積んでおくこと。
三田の会社の倉庫内にトラックごと朝の出発時まで大切に保管するので
宵積みしたトラックは なんとなく少し贅沢な感じですね。
茨木~堺を1.5往復した後に向かう場所は 大阪市此花区にある工場です。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンから程近い場所にあるこの工場では
堺の倉庫に無い製品を追加して宵積みします。
(ちなみに この業務を行なっていた当時、USJはまだオープンしていませんでした。)
これでようやく 43号線を経て六甲トンネルを抜けて 三田への帰途となるのです。
それにしても、茨木から堺までの1.5往復はこのコースのハイライト。
通常の近畿自動車道ではなく、名神高速道路から阪神高速池田線を経由して環状線に入り、
湾岸線を走り堺の工場に向かうルートを選んでいました。
もちろん、大渋滞は最大の敵ですが(笑)。
渋滞もなかなかのもので、ただ前進しているだけなのにストレスが溜まりますね。
でも不思議なことに、いつも大渋滞でもなんとか時間通りに運行できるんですよね。
苦笑いしながらも、その不思議な運命感にほっこりしてしまいます。
このコースでは、朝一番に明石市魚住の某メーカーの倉庫で荷降ろしするんですが、
それが現在の住まいからたった2、3分の距離。
当時は三田に居住していたので、やはり会社に帰っていましたが
でも、もし今と 同じ所に住んでいたら
わざわざ遠い道のりを走ることなくそのまま直帰できたのかも知れません。
もっと楽で走行距離も時間も無駄をせずに業務できたのかもしれませんね。
ま、それも でっかいトラックをとめておける場所があったならばのことですし…
このコースも 僕は3ヶ月ほどしか担当しなかったので、
結局は 何とも言えないかな?
全線高速利用で、仕事がプチドライブ旅行のような感覚になることもありますし、
モノの見方次第で、この仕事もちょっとした冒険や楽しいドライブとして考えれば、
もっと気楽に仕事ができたのかもしれませんね… きっと。

2024年01月14日
物流回想録:未来への航跡001☆真夜中から未明の集荷運送業務
21世紀初頭から丸5年間、僕は兵庫県三田市の運送会社で働いていました。
あれからもうすぐ20年が経とうとしています。
自分があのようなハードな仕事をしていたとは、
今となっては嘘のようで、まるで夢のような話です。
トラックを降りてからは、月日が流れるにつれて、
あの頃のことを忘れていくような気がしていました。
しかし、その過去を忘れずにいたいと思い、初めてブログに記したのは
てんこもりのスタッフとして高砂の株式会社シールズで働いていた15年前のことです。
明石商工会議所で1月25日に開催される【第144回ふれんどらいん異業種ビジネス交流会】にて、
【運送屋綺譚2024スペシャル】と題した勉強会を盛り込むことが決まりました。
それを前に、加筆した内容にて、改めてこちらに記していきます。
【001☆宅配荷物集荷業務】(4t ワイド ウイング ロング)
三田(21:00出発)→摂津(22:30~集荷作業~翌0:30)
→茨木(1:00集荷)→三田(3:00~荷降ろし~4:00)
→六甲アイランド(5:00仮眠~7:00~集荷~8:30)
→神戸北区内配達(2・3件)→三田(10:00~荷降ろし~11:30業務終了)
運送業界での経験はさまざまでしたが、
宅配荷物の集荷業務に関しては、3ヶ月ほどの期間が記憶に残っています。
宅配といっても、一般家庭に届けられる荷物は少なく、大半が業務用のものでした。
重い原液が詰まったドラム缶や自動車エンジン、キャタピラ、建築用資材など、
さまざまなものを扱いました。
当然、日によって荷物の量が異なるため、積載方法には工夫が必要でした。
積載できない場合は、一旦 三田の会社に戻り、
荷降ろしをしてから再び摂津まで荷物を積みに行かねばなりませんでした。
また、集荷が遅れれば、早朝に出勤してくる宅配を担当する運転手たちに迷惑がかかります。
ただし、他のトラックを呼ぶなどの応援を頼むことは難しかったです。
フォークリフトやプラッター(リーチ型バッテリーフォークリフト)の操作は上達しましたが、
その過程で荷物や建造物の損壊(壁を壊す)などの物損事故も経験しました。
深夜であるため道は空いていますが、油断はできません。
小さな気の緩みが大事故につながる可能性があります。
そして、東の空が白みかかる六甲アイランドの埠頭で
集荷前の2時間ほど、トラックの車内で仮眠をとるのが至福のひとときでした。

※現在の六甲アイランド周辺
JR住吉駅周辺には立派なタワーマンションが林立し、当時と比べて大きく変化しています。
あれからもうすぐ20年が経とうとしています。
自分があのようなハードな仕事をしていたとは、
今となっては嘘のようで、まるで夢のような話です。
トラックを降りてからは、月日が流れるにつれて、
あの頃のことを忘れていくような気がしていました。
しかし、その過去を忘れずにいたいと思い、初めてブログに記したのは
てんこもりのスタッフとして高砂の株式会社シールズで働いていた15年前のことです。
明石商工会議所で1月25日に開催される【第144回ふれんどらいん異業種ビジネス交流会】にて、
【運送屋綺譚2024スペシャル】と題した勉強会を盛り込むことが決まりました。
それを前に、加筆した内容にて、改めてこちらに記していきます。
【001☆宅配荷物集荷業務】(4t ワイド ウイング ロング)
三田(21:00出発)→摂津(22:30~集荷作業~翌0:30)
→茨木(1:00集荷)→三田(3:00~荷降ろし~4:00)
→六甲アイランド(5:00仮眠~7:00~集荷~8:30)
→神戸北区内配達(2・3件)→三田(10:00~荷降ろし~11:30業務終了)
運送業界での経験はさまざまでしたが、
宅配荷物の集荷業務に関しては、3ヶ月ほどの期間が記憶に残っています。
宅配といっても、一般家庭に届けられる荷物は少なく、大半が業務用のものでした。
重い原液が詰まったドラム缶や自動車エンジン、キャタピラ、建築用資材など、
さまざまなものを扱いました。
当然、日によって荷物の量が異なるため、積載方法には工夫が必要でした。
積載できない場合は、一旦 三田の会社に戻り、
荷降ろしをしてから再び摂津まで荷物を積みに行かねばなりませんでした。
また、集荷が遅れれば、早朝に出勤してくる宅配を担当する運転手たちに迷惑がかかります。
ただし、他のトラックを呼ぶなどの応援を頼むことは難しかったです。
フォークリフトやプラッター(リーチ型バッテリーフォークリフト)の操作は上達しましたが、
その過程で荷物や建造物の損壊(壁を壊す)などの物損事故も経験しました。
深夜であるため道は空いていますが、油断はできません。
小さな気の緩みが大事故につながる可能性があります。
そして、東の空が白みかかる六甲アイランドの埠頭で
集荷前の2時間ほど、トラックの車内で仮眠をとるのが至福のひとときでした。

※現在の六甲アイランド周辺
JR住吉駅周辺には立派なタワーマンションが林立し、当時と比べて大きく変化しています。